二男:与謝野久  1904年 誕生   父:与謝野寛【与謝野鉄幹】  日本近現代人物履歴事典

 2007年 内閣官房長官(-2007年)  1916年 誕生     五女:与謝野エレンヌ(昭栄興業常務 田村正男の妻)   妻:坂内道子(球磨川電気社長 坂内虎次の三女)

戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。, 鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁[1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ[2]。  2009年 財務大臣(-2009年)  1935年 死去  1969年 誕生 『定本與謝野晶子全集 第1卷 歌集』の目次より歌集『舞姫』は明治39年に出版している。 自館の蔵書検索システムで全項目「年表 与謝野晶子」と検索。 【資料1】『与謝野晶子 年表作家読本』(平子恭子編著 河出書房新社 1995)     男:与謝野馨   父:与謝野寛【与謝野鉄幹】   妻:大島和子(★大島重次の妹), ◆与謝野護   母:鳳晶子【与謝野晶子】(★鳳宗七の娘) 与謝野晶子は、短歌の歌集「みだれ髪」の他にも、詩「君死にたまふことなかれ」や多数の文章を残した、近代短歌を代表する歌人です。.  1964年 東京医科大学付属高等看護学校校長(-1971年)  2002年 みずほキャピタル専務(-2004年) (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 与謝野晶子の名前を知らしめたのは、最初の短歌集「みだれ髪」、そして、「君死にたまふことなかれ」の詩です。, 与謝野鉄幹の率いる「明星」に投稿したものを集めたもので、大胆な恋愛を詠んだ短歌は大きな注目を集めました。, 「みだれ髪」与謝野晶子の第一歌集。1901年,鳳晶子の名で刊行された。与謝野鉄幹の刊行する短歌雑誌《明星》に発表した歌を中心に6章399首を収めた。, その大胆な官能的な表現に満ちた恋愛の歌の数々は、一般的にはさまざまの世評を呼ぶものとなったが、「明星」派の黄金時代を導き、与謝野晶子の名を世に知らしめることになった。, 与謝野晶子『みだれ髪』代表作短歌の現代語訳と意味/春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ, 「君死にたまふことなかれ」は、日露戦争に参加した弟に向けて語り掛ける形で詠まれた、反戦の詩です。, 大きな批判を受けましたが、民衆の声に重なるところも多く、反響を呼び与謝野晶子の名を世に広く知らしめるものとなりました。, 与謝野晶子の短歌の代表作、主要な作品として教科書その他に掲載されているものを一覧で示します。, この柔らかい肌の熱い血のたぎりに触れてもみないで、寂しくはないのですか。 道学を語っているあなた, 海が恋しい 遠く伝わる海の波音を聞きながら、少女から娘へと育っていったあの父母の家が, 清水に行こうと祇園を通り過ぎると、この桜咲く月夜である今夜すれ違う人は、みなおしなべて美しい, 何となくあなたが待っているような気がして、秋の花が咲き乱れる野に出てみたら、月が夜空に浮かんでいた, この歌についての詳しい解説は 何となく君に待たるるここちして出でし花野に夕月夜かな, 五尺もあるこの髪を解いて水にひたすと、それはやわらかに水に漂う。そのように柔らかなおとめ心の恋の思いは、深く心に秘めて打ち明けまい, この歌についての詳しい解説は 髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ, 明けても暮れても、毎日のように昔のことを恋しい恋しいと思い返しながら生きている、この世、この現実も、また夢のようなものだ, この歌についての詳しい解説は 明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはし, その娘は今まさに二十歳。櫛に梳くとすべるように流れる黒髪を持つ、この誇りに満ちた青春のなんと美しいことだろう, この歌についての詳しい解説は その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな/与謝野晶子表現技法, ああうるわしい五月、フランスの野原は咲き盛るひなげしの花で一面火が燃え立つように赤い。今やあなたもフランスの地に立つ一本のひなげし、わたしくもまた, 「よひよひに天の川なみこひながめ恋こふらしとしるらめや君」 の未発表作品が手紙から発見されました。, 与謝野鉄幹と一緒に熊本県と阿蘇を訪れた際の夫婦の短歌は、歌碑として残されています。, 斎藤茂吉の短歌を一首ずつ解説、短歌全般、現代短歌など優れた作品を広く紹介していきます。ツイッターは@marutanka 「日めくり短歌」をツイート。ブログの説明は自己紹介、連絡先はこちらをご覧ください。.

 1972年 住友金属工業常務  1944年 誕生  1952年 東京都衛生局長(-1956年)   母:坂内道子(球磨川電気社長 坂内虎次の三女) 歌集『常夏』から、明治44年の『青海波』までで、与謝野晶子の我が子を題材にした他の作品を.  1956年 東京医科大学理事(-1970年)     長男:与謝野肇 To see this page as it is meant to appear, please enable your Javascript!  1976年 衆議院議員(-1979年)     長女:与謝野八峰(俳人 孝橋謙二の妻)   父:与謝野秀  1968年 住友金属工業取締役  1873年 誕生  日本医科大学教授 7月、日華事変起こる。8月、高野山夏期大学で講師となる。この年『新万葉集』(改造社版)の唯一の女性選者となる。 昭和13年(1938) 4月、盲腸炎手術のため入院。5月、京都鞍馬寺に寛の歌碑建立。7月、『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)刊行。     男:与謝野達, ◆与謝野馨  1961年 外務研修所所長 波」「夏より秋へ」「朱葉集」「火の鳥」「太陽と薔薇」などがある。昭和に入ってからも作歌活動は続き、「心の遠景」「白桜集」(遺稿)などの歌集が刊行されている。また、上記の短歌、「君死にたまうことなかれ」をはじめとする詩や小説、童話のみならず、源氏物語などの古典研究、婦人問題に関する評論活動、文化学院をよりどころとした女子教育など、多方面にわたって活躍する。.

Copyright© 短歌のこと , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER.  2008年 内閣府特命担当大臣(-2009年)   母:坂内道子(球磨川電気社長 坂内虎次の三女)  1996年 興銀インベストメント社長 ◆与謝野礼巌   母:国府米子(★住友銀行取締役 国府精一の二女), ◆与謝野久  1919年 慶應義塾大学教授(-1932年)  日本輸出入銀行

    六男:与謝野健  人事興信録 28版  1992年 死去  1949年 外務省調査局長(-1950年)   母:鳳晶子【与謝野晶子】(★鳳宗七の娘)   母:鳳晶子【与謝野晶子】(★鳳宗七の娘)   妻:   妻:湯地国恵(湯地定彦の二女、★湯地定基の長男), ◆与謝野健  1962年 オリンピック東京大会組織委員会事務総長(-1965年)     三男:与謝野護【鳳護】(鳳修の養子) 与謝野晶子さんと旦那の与謝野鉄幹氏との愛が載っている歌集『みだれ髪』の恋の歌と夫の女性問題、激しい夫婦関係として残っている代表的なバナナ事件について調べました。また、若い頃の生い立ちから軸となっている女性解放と自立の世界観を追っていきます。 与謝野 晶子 [ ... 翌年、処女歌集「みだれ髪」を刊行。浪漫的な情趣をたたえた「明星調」は当時の青年層から熱狂的に支持された。與謝野寛との結婚後は、「小扇」「舞姫」「夢之華」などの歌集をあいついで刊行し、歌壇に女流歌人の第一人者としての名声を確立した。明治四十年代から大�   妻:石川とも子(★主婦の友社会長 石川数雄の長女) 与謝野 晶子: 作家名読み: よさの あきこ ... 翌年、処女歌集「みだれ髪」を刊行。浪漫的な情趣をたたえた「明星調」は当時の青年層から熱狂的に支持された。與謝野寛との結婚後は、「小扇」「舞姫」「夢之華」などの歌集をあいついで刊行し、歌壇に女流歌人の第一人者としての名声を確�  1994年 文部大臣(-1995年)     三男:     長男:与謝野光   父:与謝野寛【与謝野鉄幹】     四女:与謝野宇智子(加藤賢蔵の妻)     二女:与謝野七瀬(山本直正の妻、★山本直良の長男)  1949年 外務省政務局情報部長  1913年 誕生 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[3]『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。, 20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。, 1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[4]、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた[5]。敦賀港から船でロシアのウラジオストク港へ渡りウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でパリへ旅立った。その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑がウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にある。, 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。, 1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。, 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。, 1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[6][7]。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[7]。墓は多磨霊園にある[8]。, 情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』(1901年)や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。, 歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。, 1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。なお、晶子の弟の鳳籌三郎は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きているが、彼の所属した歩兵第8連隊はこの詩が詠まれた頃は遼陽会戦を戦っており、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高い。, その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。, 大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。, この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。, 日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは未決在監中に弁護士・平出修に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことの悔恨を小林天眠への手紙に残している。, 1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。, 1915年(大正4年)に読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。, 1924年(大正13年)文化学院、専門学校および高等専修学校式歌(校歌)「賀頌」作詞。作曲は山田耕筰。, 2014年(平成25年)に発見された未発表の歌では、日中戦争の拡大を憂いて「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」と詠んでいる。「たゞの船」とは民間の商船のこと。1937年(昭和12年)8月13日、横浜港で扇子にしたためたという[9]。, 晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鷗外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。, 晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。教育問題なども評論している。, 女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。数学が大変得意であり、女性も自然科学を学ぶべきと主張した[10]。, 反良妻賢母主義を危険思想だと見ていた文部省の取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家・山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した。, 政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出してはいたが前述のように、一貫性がなく、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義も批判していた。, シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。また、米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内内閣の退陣を要求している。, 晶子は『中央公論』1919年(大正8年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。, 入江春行によれば、「中国をやっつけろと盛り上がる世論の中で、悲しいと詠む歌は発表できなかったのだろう」という(, 廣岡守穂「福祉と女性(3) 急進的フェミニスト・与謝野晶子の歌と思想」『白門』61巻9号、中央大学通信教育部、2009年9月、25頁。, 与謝野 信|公認候補者|2017年 衆院選特設サイト|「この国を、守り抜く。」自由民主党, / Bosque de Bambú, camino del haiku - Yosano Akiko, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=与謝野晶子&oldid=80168452, 1989年2月 『憂国の詩 : 鉄幹と晶子・その時代』永畑道子著、新評論。ちくま文庫にも, 1991年3月 『与謝野晶子 : その生涯と作品 没50年記念特別展』堺市博物館編、堺市博物館, 1993年11月 『わが晶子わが啄木 : 近代短歌史上に輝く恒星と遊星』川内通生著、有朋堂, 1994年10月 『与謝野晶子研究 : 明治、大正そして昭和へ 決定版』赤塚行雄著、學藝書林, 1996年1月 『君も雛罌粟われも雛罌粟 : 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』上・下、, 1996年11月 『女をかし与謝野晶子 : 横浜貿易新報の時代』赤塚行雄著、神奈川新聞社, 1997年1月 『絵画と色彩と晶子の歌 : 私の与謝野晶子』持谷靖子著、(『にっけんの文学・文芸シリーズ』)、にっけん教育出版社, 1997年9月 『火の色す : 富村俊造・与謝野晶子アカデミーの軌跡』与謝野晶子アカデミー百回記念誌編集委員会編、『山の動く日』の会, 1998年7月 『與謝野晶子と周辺の人びと : ジャーナリズムとのかかわりを中心に』香内信子著、創樹社, 1999年7月 『おんな愛いのち : 与謝野晶子/森崎和江/ヘーゲル』園田久子著、創言社, 2000年4月 『文に生きる絵に生きる : 与謝野晶子、ビアトリクス・ポター、リリアン・ヘルマン、いわさきちひろ』越水利江子、, 『与謝野晶子 女性の自由を歌った情熱の歌人』(学習まんが人物館/小学館)入江春行、漫画・, 誰見ても親はらからのここちすれ地震をさまりて朝に至れば, 瑠璃光,今昔秀歌百選:選者:土屋博(日本オートスポーツセンター理事長), 晶子が死去する直前に病床で書いた、短歌の草稿ノートが2014年に発見された。短歌は約90首収録されており、日付は1941年10月から1942年1月2日となっている.   父:与謝野礼巌  外務省入省 与謝野晶子は、短歌の歌集「みだれ髪」の他にも、詩「君死にたまふことなかれ」や多数の文章を残した、近代短歌を代表する歌人です。与謝野晶子の短歌の代表作品を、現代語訳と共に示します。   母:石川とも子(★主婦の友社会長 石川数雄の長女), ◆与謝野達  2004年 自由民主党政務調査会長(-2005年)     五男:与謝野寛【与謝野鉄幹】  1963年 日本原子力発電(-1968年)  1971年 死去   母:鳳晶子【与謝野晶子】(★鳳宗七の娘)   父:与謝野健  1984年 通商産業政務次官(-1985年) 与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさのあきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。 旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。  1909年 誕生     四男:  2004年 阪和興業監査役  日本官僚制総合事典  人事興信録 37版   妻:鳳晶子【与謝野晶子】(★鳳宗七の娘)

 1938年 誕生 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}).     長男:  1980年 衆議院議員(-2000年)     六女:与謝野藤子(★森芳介【森弥多丸】の妻、森弥五郎の五男), ◆与謝野光  1904年 誕生 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 新型コロナの流行と共に、与謝野晶子はスペイン風邪の流行の折、子どもを亡くしたとネットで伝えられました。, ただし、与謝野晶子の当時10人の子どものうち1人が感染、それがうつったのか家族がスペイン風邪に次々と感染するという出来事がありました。, 子だくさんであるがゆえに大変な思いをしたのでしょう、与謝野晶子は横浜貿易新法に「感冒の床から」とする評論を投稿しました。, 「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、工業物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」, そして、それから約100年後、人々がその文章を思い起こした新型コロナの流行の経緯はここに記すまでもないでしょう。, 与謝野晶子はその後も、子どもを産み、子どもの数は、全部で12人、うち1人が乳児の時に亡くなっています。, 与謝野鉄幹は名の通った歌人ではありましたが、確実な収入があったというわけではなかったようです。, 与謝野晶子の短歌というと、常に鉄幹との不倫時代の恋愛の短歌ばかりが取り上げられていますが、一面で、晶子は立派な家庭人であったと思われます。, それでは、ほとんど知られていない、与謝野晶子の子どもを詠んだ短歌には、どのようなものがあるのでしょうか。, 歌を読む前に書いておくべきことは、「君死にたまふことなかれ」は、日露戦争が始まったときに書かれた詩で、戦争に兵士として参加する弟を思って書いた詩です。, さらに、この詩は、晶子が光と秀の子どもを二人得てからの明治37年時点のものであり、命の大切さという主題が、出産を経て母となった時期の晶子の作品だということも記憶しておきたいところだと思います。, 与謝野晶子の作品は5万首とも言われ、膨大な量があるので、調べるのもむずかしいのですが、子どもの短歌で目についたものをまず2首あげておきます。, あなたに似た小さな人である子どもがいるので、我が家の中は光り輝いている。その人は神より来たのではないか, 清らかに我が子が病気になって伏せている様子は清らかでもあり、その時の悲しさは、水の底に月が沈んているような心持だ, 明治41年の歌集『常夏』から、明治44年の『青海波』までで、与謝野晶子の我が子を題材にした他の作品をあげておきます。, 少女子(おとめご)は父の胸に抱かれて、そのことをまるで天下をおさめるようなことと言う, 腹が立った様子で住をまき散らしている3歳の我が子をそのままにさせて、鶯の泣くのを聞いている, 家庭人としてまた、歌人として精力的に仕事をした与謝野晶子ですが、作品は恋愛の短歌の『みだれ髪』だけではありません。, 斎藤茂吉の短歌を一首ずつ解説、短歌全般、現代短歌など優れた作品を広く紹介していきます。ツイッターは@marutanka 「日めくり短歌」をツイート。ブログの説明は自己紹介、連絡先はこちらをご覧ください。.