と断り、自ら敵陣に駆け込んで、敵兵の首をあげた。, 本多忠真は感涙し、



その偵察に出向いた忠勝は武田軍に見つかってしまい、図らずも「三方ヶ原の戦い」の前哨戦となってしまう。, 危険な殿(しんがり)を務めた忠勝は、上の絵にもあるように、見付(静岡県磐田市見付)に火を放ち、武田軍の追撃を遅らせた。

ちなみに10代忠盈と12代忠典は、真田信之(=小松姫の夫)の血脈を受け継いでいる。 しかし、19・20・21代はいずれも養子であり、調べた限りでは3人とも忠勝の血脈を受け継いでいないようだ。 忠勝 … 原文「のち、かならず、物の用に立つべきものなり。」(『寛政重修諸家譜』), このときは、育て親の叔父・本多忠真が、なんとかして本多忠勝に敵兵の首をとらせようとして奮迅。, 敵兵を倒し、

戦国ファンの間では最強武将No.1として知られている。, 「ただ勝つのみ」 桑名では「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業を断行し、「桑名藩創設の名君」として仰がれるほどだった。, 徳川家康のイトコにして戦国一の暴れん坊・水野勝成も、福山藩主になった後は名君としての誉が高いが、忠勝も含めて、単なる馬力だけでは真に強い武将とはなれなかった証左かもしれない。, しかし……。 ※続きは次ページへ.

さらには愛刀「稲剪りの大刀」、愛槍「蜻蛉切」を次々と手に入れ、16歳の時には「三河一向一揆」(注)鎮圧戦において、一向宗から浄土宗に改宗する。徳川家康側につき、多くの武功を挙げたのだ。, ※三河一向一揆:西三河(三河国西部地方)全域で永禄6年(1563年)9月から翌・永禄7年(1564年)2月までの約半年間行われた一向宗(浄土真宗)の門徒による一揆。, 生涯無傷の本多忠勝。 母は小夜(植村氏義の娘)で、忠勝は二人の長男(幼名は「鍋之助」)だった。, 生誕は天文17年(1548年)2月8日。場所は西蔵前城。

重装備なのに傷だらけだった徳川四天王・井伊直政とよく対比される。, 雲州道水作とも、伯耆広慶作とも。 【おまけ】野太刀の鍔

http://www.town.otaki.chiba.jp/index.cfm/10,9705,65,html, https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12376504082.html. と徳川家康に言上する。, この「登屋ヶ根城攻め」後、本多忠勝は「鹿角脇立兜」の制作を依頼。 と書いた札を立てて褒め称えた。, 続く「三方ヶ原の戦い」で徳川史上、最大となる敗戦を喫し、父と慕っていた叔父の本多忠真も討死。 敵(織田方)の武将・山崎多十郎に討ちとられそうになり、叔父であり育ての親でもある本多忠真(ただざね)に救ってもらっている。, 意訳「将来、必ず、徳川家康公のお役に立てる大物になるでしょう」

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「三国黒」の忘れ形見として、家臣・原田弥之助が持ち帰ったと伝わる。

「この敵兵の首をとれ」

最強武将と称えられる所以の要因であるが、それは全戦全勝を意味するものではない。, 遠江に大軍を率いて侵攻してきた武田信玄。 「自分の役目は終わった。ここが死に場所」 現地案内板からその内容をお伝えしよう。, 「この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。

なお、隆将氏は忠勝の鎧を所有しているとか。また、以前に徳川四天王の末裔が一堂に集まって行なわれた浜松市のイベントでは、先祖から「(忠勝は)ただ勝つのみ。強い武将だった」と聞かされていた、と話していたという。, さて、子孫が現代にも繋がっているのはわかったが、忠勝の血脈も受け継がれているのだろうか?, 系図でわかるように、後継者が養子の場合がかなり多い。だが、養子が継ぐ場合でも、分家から迎え入れるなどして忠勝の血筋がつながっており、18代忠昭などは、「初代忠勝→2代忠政→二男忠義→・・・・→13代忠顕→14代忠考→・・・・→17代忠敬」、といったように忠勝の血筋をつなげているのがわかる。ちなみに10代忠盈と12代忠典は、真田信之(=小松姫の夫)の血脈を受け継いでいる。, しかし、19・20・21代はいずれも養子であり、調べた限りでは3人とも忠勝の血脈を受け継いでいないようだ。, 戦国期に多大な功績を残した本多忠勝だが、その子孫たちは江戸時代にどのような処遇を受けたのだろうか?, 先に結論をいってしまうと、江戸期には実に10回も転封(=領地を別の場所に移すこと。国替え。)されており、8代忠良の代には減封(15万→5万石)までされている。同じ徳川四天王の井伊直政の子孫が、江戸時代に大老を務めているのと比較すると、良い処遇とはいえなかったように思う。, 最後に初代忠勝から17代忠敬までの簡単な年表でまとめたので、統治した藩の変遷や役職などを確認してほしい。, All Rights Reserved, Copyright © sengoku-his.com 2020 無断転載禁止, 徳川四天王として称えられ、現代にも天下無双の将として知られている本多忠勝。関ヶ原の戦いを最後に、戦場にでることはなかったが、忠勝の子孫たちは江戸幕府以降、どのような歴史をたどっていったのだろうか?.

法名は「西岸寺殿前中書長誉良信大居士」で、墓所は浄土寺(三重県桑名市)である。, 子孫は、姫路藩主(兵庫県)、浜田藩主(島根県)などを経て、明和6年(1769年)岡崎藩主となり、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地・岡崎を治めた。, 本多忠勝の容姿については、一昨年(2016年)のNHK大河ドラマ『真田丸』の藤岡弘、さんや、昨年(2017年)のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の高嶋政宏さんのイメージが強いであろう。, 一言で表せば「無骨」。

──家康に過ぎたる者が二つ有り 唐の頭に本多平八 「夢で、鹿の角を作るようにと八幡神に告げられたので、作っている」 十代の頃は、肩から吊っていたと伝わる。, 藤原正真作で「天下三名槍」の一つ。

しかし「関ヶ原の戦い」における島津義弘軍の銃撃により死亡し、本多忠勝は落馬した。 特徴的な鹿角の兜のみならず、肩から下げられた「金箔押の大数珠」は、いかにも堅強な武人というイメージである。, 三河武士のやかた家康館にある本多忠勝の顔出し看板(館内は撮影禁止ですが、この顔出し看板と体験コーナーは撮影可能です), 初陣となった永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」。 と思ったかものしれない。(※実子は出家している), 以下は、本多忠真の忠義を称えるために建てられた「表忠彰義之碑」である。 「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。 「山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。 本といえば、大多喜町の「NHK大河ドラマ誘致実行委員会」も

あと、龍城神社の授与品には、徳川家康の本や、岡崎城の本もあります。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 私の説は、「こツ可うす くんうきよや いまわ満(みつ)まる」(骨鯁す 君浮世や 今は満まる)です。

「我、あに人の力を借りて功を立てむや」 本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。, 本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿を買って出ました。

記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12376504082.html, 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。, 「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。, 「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。, 「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。, 「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。, 「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。, 「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。