その39:一回戦敗退はほぼ決まっているのに、無理矢理出場させられるアイドル枠(CoCoなど)の見ていられない痛々しさ。

その31:子供心に感じていた栗田貫一の “優勝してもエースにはなれないんだろうな” 感。 その06:自分が生まれる前の曲は「スターものまね王座決定戦」で覚えた。 その17:コロッケが好きすぎて、コロッケ単体のビデオ “コロッケ七変化” を、兄弟でお年玉を出し合い購入する。

その26:しかしその後、また下品なネタで勝負する清水アキラに、清々しささえ感じた。 清水アキラのお下劣ネタに仏頂面で酷評する淡谷先生 21 昔の名無しで出ています 2016/04/10(日) 11:57:22.34 ID:GzzDqpJT 淡屋のり子でも歌うことができなかったのが「ヨーデル」の発声法。

その35:四天王時代の終わりを予感させた、岩本恭生の出現。

淡谷は、下品な芸で笑いをとる清水アキラを本気で嫌っていたらしいが、清水が珍しく正統派の物真似を披露した際に10点満点を出し「あなたはやればできるのよ」と褒めたこともある。 この時、清水は感激のあまりテレビカメラの前で号泣した。

その08:コロッケの全てを面白く感じる。 その29:そして結局はハゲネタで落とす芸風を、子供ながらに「ずるい!」と思っていた。

その24:ただ春日八郎のものまねで『お富さん』を歌った際、「死んだはずだよ淡谷さん」と歌ったときは「さすがにフォロー出来ないな」と思った。 その47:ただごく稀に「?」となるときがある。 岡田三郎助、田口省吾、前田寛治がいる[1]。その後、復学しリリー・レーマン(ドイツ語版)の弟子である柴田稲子の指導を受け首席で卒業。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い十年に一人のソプラノと絶賛される。, 世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。キングレコードでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。, 1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。映画館の専属となりアトラクションなどで歌う。当時、東洋音楽学校からは青木晴子、羽衣歌子らが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)。, 1963年に起きた内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方が暴力団を「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、卒業生たちが東京声専音楽学校(現在の昭和音楽大学)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。, 1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット[注 1]。淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。, 日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。, その後も数々の曲を世に送り出し名をとどろかせる(なお、この頃のバックバンドのメンバーには日本のジャズの父と言われるティーブ・釜萢がいた)。その当時に淡谷のピアニストを務めていた和田肇(1908〜87)と1938年に結婚するが、翌年離婚。その後は生涯独身であった。尚、淡谷には娘が一人いるが、和田との間の子供ではない。[2], 戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。, 「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行為の結果、書かされた始末書は数センチもの厚さに達したとのことである。, 戦後はテイチク、ビクター、東芝EMIで活躍。やがて、ファルセット唱法になる。声楽の基礎がしっかりしているので、胸声一本ではなくハイトーンを失わないところに歌唱技術の深さがあった。1953年に『第4回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たす。NHKの公式資料によれば、同紅白で初出場ながらいきなり紅組トリを務めたとなっている。また、紅白で第1回を除いて初出場でトリを務めたのは淡谷のみである[注 2]。, この頃からテレビのオーディション番組の審査員やバラエティ番組などに出演する。歌手オーディションでマイクの前で歌う経験がなく、セーブせずにホールで歌うように歌唱して不合格になった程の圧倒的な声量と、音楽的な基礎を学んできた自らの経験から辛口の発言が多く、1965年の『NHK紅白歌合戦』では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となる。, しかし複数の歌手や作品に対しては高く、もしくは一定の評価をしており、晩年は五輪真弓の「恋人よ」をレパートリーに取り入れていた。同楽曲で1982年4月1日放送のTBS『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーに出演したことがある。一方で、大物とされるような歌手であっても嫌いな歌手に関してテレビ番組等で堂々と公言していた。, そして1970年代前半には、『全日本歌謡選手権』(よみうりテレビ)の審査員も務めたが、この番組から世に出た五木ひろしについて、同番組審査員の山口洋子は五木に高得点を付けたが、淡谷は落とす方に回ったと後に述懐している。1979年、津軽三年味噌(かねさ)の広告に出演。淡谷が口にしたコピー「たいしたたまげた!」(方言で「とても驚いた!」)は当時の流行語になった。, 1980年代から1990年代にかけて、フジテレビ『ものまね王座決定戦』の名物審査員として若者からも人気となる。審査員としては辛辣な評価が有名で、コロッケのネタによく破顔一笑していた一方で清水アキラが披露する下品かつ悪ふざけに近い物真似[注 3] に対しては、非常に厳しく採点していた。淡谷の死後、コロッケは一時期淡谷の物真似の封印も検討したが、淡谷の実妹である淡谷とし子から「若い世代の人にも淡谷の名前を知って貰いたい」と言われ、死後20年近くなる現在でも淡谷の物真似を披露している[3]。, また、小堺一機司会のフジテレビ『ライオンのいただきます』にも度々出演。「自分の母親に似ている」という原ひさ子と仲良くなったという。スタジオでも淡谷が原の手を引いて歩くほどだったが、実は淡谷の方が年上だったというエピソードがある。, 晩年までテレビやコンサートで精力的に活動を続けてきたが、長年の音楽仲間で戦友ともいえる藤山一郎・服部良一が死去した1993年に脳梗塞で倒れる。軽度ではあったが言語症や手足にマヒが残るなど体調は悪化し、この頃から急速に仕事への意欲を失い始めた。この時期、自身のライブを録音したテープを聴き「これでは人様に聴かせられない」と絶句し、一線を退く決心をしたとも言われ、露出は無くなった。, 1990年代にはゲルマニウム美容ローラーの広告に他界するまで契約を結んでいた。一時期は淡谷が愛用している旨のテレビ広告が盛んに流れていたため、清水アキラやコロッケが淡谷の物まねをするときには小道具として使用していた。晩年、テレビ等への露出が減った際にも広告に「復帰はもう少し待ってくださいね」などとメッセージを寄せ、淡谷が他界すると美容ローラーのメーカーは「ありがとう淡谷のり子さん」と追悼広告を新聞に出した。, 晩年は寝たきりとなり療養生活を送っていた1996年、後輩たちによって淡谷の米寿記念コンサートが行われ、久々に姿を現した。このコンサートの際に森進一に「別れのブルース」を、美川憲一に「雨のブルース」を、「それぞれ形見分けではないですが差し上げます、歌っていって下さい」と発言し、話題を呼んだ。しかし、これは周囲が勝手にお膳立てをしたもので、淡谷本人や妹のとし子(同居人で姉の介護にもあたっていた)は、このことを知らされておらず、報道後も(形見分けなど)認めていなかった。そして、このコンサートのフィナーレで全員合唱の中、口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が人前で歌った淡谷最後の歌唱となった。, 1998年10月、故郷の青森市名誉市民の推戴式に車椅子姿で姿を現したのが、生前公の場に立った最後になった。翌1999年9月22日、老衰により死去。その死は一般紙でも一面で報じられ、テレビでも複数の追悼番組が放送された他、多くの雑誌で追悼記事が掲載された。, ステージ衣装が一着のみではあるが、群馬県渋川市の日本シャンソン館(ウェブサイトのURLは外部リンク欄を参照)に展示されている(2006年6月現在)。, 軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。情けなくなるの。狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。私は美空ひばりは大嫌い。人のモノマネして出て来たのよ。戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。, 清水アキラの場合、歌詞を変えて品の無い歌まねをしたり、顔にテープを巻いて登場して批判されることが多かった。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=淡谷のり子&oldid=79811817, 『生きること、それは愛すること―人生は琥珀色のブルース ライフ・カレント』PHP研究所、, 『淡谷のり子―わが放浪記 人間の記録 (16) (わが放浪記 の改題)』日本図書センター 、. 最近はテレビであまり見かけなくなった清水アキラさん。 清水アキラさんと言えば、1970年代後半にザ・ハンダースのリーダーとして"ハンダースの思い出の渚"がヒットしましたね、当時放送していたテレビ番組"笑って!笑って!!60分"(土曜日の12:30 - 13:25途中から13:00 - 13 その48:片耳ヘッドフォンスタイルの野口五郎がちょっとかっこよく見える。 その32:子供心に感じていた栗田貫一の “器用貧乏” 感。 その22:清水アキラが出てくると、審査員の淡谷のり子が怒っていないか気になって仕方がない。 清水アキラと手打ちするのり子 5 : 昔の名無しで出ています :2007/10/16(火) 22:11:24 ID:CtftDnK1 美空ひばりと「ふたりのビッグショー」で競演する淡谷のり子 その22:清水アキラが出てくると、審査員の淡谷のり子が怒っていないか気になって仕方がない。 その23:案の定、下ネタで怒られている清水アキラを見て「まあまあ淡谷さん」とテレビの前でフォローす …

淡谷のり子に初めて満点出されて泣いていた清水アキラを見て、俺も泣いた 93 名無しさん@恐縮です 2019/02/08(金) 11:45:56.23 ID:qA5t3bDc0 八代さんは完全にジャズ向きの声だから演歌好きにはあまり好かれてない印象

その36:岩本恭生が実力者と対戦するときに「布施明」を出して来たら「置きにいったな」と思う。ただ抜群の安定感なので、気持ちは理解出来た。 その10:でも浅田美代子本人の前で、歌の下手さを強調しながらものまねするコロッケを見ても、そこまでハラハラしない。 その50:本当に楽しかった。, 【衝撃サッカー動画】ただ今4戦連続フル出場中! ブラジルW杯日本代表のディフェンダー・森重真人選手とは, 【なぜ】帰宅途中の生徒に「トイレはどこですか?」と尋ねる事案発生 / 兵庫県・宝塚市, スシローの2貫100円皿で高コスパなのはこれだ! 回転寿司マニアに聞いた「オススメ3選」(2020年11月版), 【実録】突然「声が出るよ」と書かれた謎の段ボールが届いた → 開封してみた結果 …, 【ポケモンGO】マスクド・ピカチュウ獲得の大チャンス到来!「リトルカップ」用のオススメポケモン10選, 【嘘やろ】育児で疲れ果てた妻に「デニーズ × ゴディバの期間限定パフェ」を食べさせたら予想外すぎる一言が返ってきた. その15:その際、驚愕しつつも怯まず自分の芸を貫くコロッケにますます夢中になる。

その42:優勝は無理だとわかっているが「ピンクの電話」が勝つとヤンヤの喝采。

その27:ビジーフォーの外国人ものまねが、似てるかどうかわからないモヤモヤ感。 その09:野口五郎本人の前で、ものまねをするコロッケを見てハラハラする。特にハラハラするのは鼻をほじって舐めたとき。