あずまやなどもあるので、散策の途中でのんびり休憩する人の姿もちらほら。 まず島津や小早川、脇坂などから人質をとり、裏切らないようにしてから、徳川家康に通じさせ、味方になると、騙し、家康には戦場で裏切ると嘘をつき、安心させて、戦場で裏切ったと見せかけ、大谷部隊に攻められていると見せかけ、全軍反転し、家康本陣めがけて、突撃。

その夜、山中の大谷吉継陣の小屋に陣を取られ、井伊直政先手は今洲口に陣を取り四方に段々に陣を取った。」【太田和泉守記】, 9月16日、東軍は西にある石田三成の居城 佐和山城(三成の父正継・兄正澄ら石田一門 兵数2,800)の攻撃に向かう。, 9月17日早朝、徳川家康は小早川秀秋、井伊直政、田中吉政らに攻撃を命じる。 【関原始末記(1656年)】「石田の家老島左近が先手であり、その左の山際は織田小洞信高ならびに大坂黄母衣衆が段々に控え、島津義弘・豊久は石田の後ろに陣をとる」, ※上記布陣図では島津義弘陣跡に島津豊久を配置、後方にある「薩摩池」に島津義弘を配置しています, 「十五日小雨降。山間のため霧が深くかかり、五十間(約90m)先は見えない。霧が上がれば百間も百五十間先も、わずかに見えたかと思えば、すぐに霧が下りて、敵の旗が少し計り見えることもあるかと思えば、すぐに見えなくなる。 後の世に建てられた朱の唐門をくぐると、スダジイの見事な大木が旅人を迎えてくれます。, 西首塚は東首塚からJRの線路を挟んで1㎞ほど離れた場所に。

12月、本庄繁長が上洛、講和交渉を行う。, -------------------------------------------

10名規模の精鋭を10部隊程編成し、全員農民/商人に変装させ、東軍が上杉征伐に出発する前後に江戸市中・近郊に潜入させる。 効率よく見学するためにも、情報収集は欠かせません。

なぜ三成が最前線ではなくこの場所に本陣を置いたのか、小高い山の上からあたりを見渡しながら、ふとそんなことを考えてしまいます。 敗戦後、伊吹山を越え北近江へ逃亡。古橋村で腹痛を患い歩けない状態のところを、与次郎太夫という村人に保護される。しかし噂が広まったことで三成は自身の居場所を知らせるよう与次郎太夫に伝え、田中吉政の家臣に捕らえられる。(腹痛で倒れているところを村人が田中吉政家臣に知らせたとも記載)9月23日、大津へ送られ東軍諸将と対面する。【田中興廃記】, (三成はニ、三日ろくな食事もせず、稲の穂などを食べたため腹を悪くしていた。ぼろをまとい病気で寝ている風をよそおっていたところ、田中の家臣が発見して捕らえた。大津では小袖を与え医者に見せて養生させた。【関原始末記】) 攻撃を開始するはず。別に攻撃を開始しなくてもいい。) 天下分け目の大戦があった場所は、そのまま変わらず、今も静かに時を刻んでいるようです。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, 岐阜県の南西、伊吹山の麓に位置する関ケ原町(せきがはらちょう:現在の町名としてはヶではなくケと表記)。南北を山に挟まれ、西へ抜ければ琵琶湖へ。近畿と東海を結ぶ交通の要衝として、古くから関が置かれ、中山道の通り道となり、今も高速道路や新幹線が通る場所。そして、かの”天下分け目”の関ヶ原合戦の決戦の地。大変有名な土地ではありますが、「観光で行ってきた!」と言う人は少ないのではないでしょうか。誰もが知る出来事が起きた関ヶ原とはどんなところなのか、歴史を紐解きながら廻ってみたいと思います。. 堀田一継 只でさえ福島勢が崩れて宇喜多勢に余裕ができ西軍の式が上がっているのに よい策では、ないけれど、書かせていただいたのは、良かったです。 『内府公軍記』の著者は『信長公記』の著者として知られる太田牛一。合戦の翌年慶長6年には原本が成立しており関ヶ原関連の二次史料群の中で最初期の書物といえる。複数の自筆本・写本が現存するが、ここでは初期の原本を模写したものと考えられる杤山家所蔵本を底本とする[137]。, 家康が赤坂に着陣すると大垣城の石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の各隊は山中まで引き、翌朝には垂井の南にある岡が鼻山に毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家ら計2万が弓鉄砲を前衛に陣を構える。家康はこの方面に池田輝政・浅野幸長を送り込み、自らは旗本衆の指揮を執って野上と関ヶ原の間に陣を張った。 しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略していた。 主力部隊とぶつかりながらひたすら三成の陣を目指してにじり寄る東軍。

10月1日、京都六条河原にて処刑となる(43歳)。, <安国寺恵瓊>

山頂からまわりの景色を見ると、関ヶ原を一望することができ、この場所が合戦の勝敗を左右する重要な地点であったことがわかります。 秋月種長 (政宗は北部の南部領へも兵を出しており、すぐに景勝と対峙するのは困難だった), 9月24日、伊達政宗が家康へ、宇都宮の結城秀康から援軍要請の返信がないと不満を伝える。【大阪歴史博物館所蔵文書】, 9月30日、伊達政宗のもとへ関ヶ原の戦いで東軍勝利の報告が家康から届く。【留守家文書】 ※地形・場所は国土地理院「電子地形図」、河川は明治時代の古地図を利用して作成, 参戦武将と兵数 東軍の目指す先も三成の本陣であったはずです。 (参考文献:『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里』桐野 作人 (著) 学研新書 他), 【太田和泉守記(1607年) ※太田牛一が家康へ献上した書物】「北野の原小関村を出て南辰巳(南東)に向かって軍勢を備える。大谷吉継・宇喜多秀家・平塚為広・戸田重政は石原峠に着陣し、ここを下り谷川を越え、関ヶ原北野へ軍勢を繰り出し、西北の山手を後ろにする」

福島軍は疲れている所を挟み撃ちにされて逃げ出す。 袋の鼠となった西軍は浮き足だち右往左往。我先にと敗走するも周りを敵に囲まれては万事休す。, 長曾我部として 藤堂高虎(藤堂高吉)

あるいは地図上大きく迂回して福島に横やりを入れる。 季節としては葉が色づき落ちていたかもしれません。 この場所に立ってまわりを見渡してみると、周囲をぐるりと低層の山々に囲まれていて見通しがいいということに改めて気づかされます。 常設されている6曲1隻の「関ケ原合戦図屏風」は1854年に描かれたもの。 1614年10月9日、信繁(48歳)は手勢とともに九度山を脱出、大坂へ向かう。, 1600(慶長5)年7月29日、蜂須賀家政が返上した阿波国へ毛利軍(村上元吉・景親兄弟ら)を侵攻させ、徳島城を占領する。, 8月、豊前では黒田如水が兵を集めていたため、森吉成(毛利勝信)領の門司城、小倉城へ兵を送る。8月18日、森吉成は輝元の指示で隈本の加藤清正のもとへ派遣される。, 8月、伊予の藤堂高虎領、加藤嘉明領の家臣へ調略をかける。(伊予国北部の野間・風早郡(来島氏)、越智郡(小川祐忠)、和気郡(安国寺恵瓊)、喜多郡大洲(池田秀氏)は西軍方), 9月、毛利軍(宍戸景世、村上武吉・元吉ら)が広島から伊予の加藤嘉明領へ侵攻する。

大坂城の前田玄以は西軍に加担しなかったため、丹波亀山を安堵される。, <立花宗茂> 【島津家臣某覚書】「惟新様(義弘)御備えより東の備前中納言殿の備え」 このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。 (西軍の南宮山部隊「23,800人」、東軍の池田輝政・浅野幸長らの対南宮山部隊「13,760人」), 【神戸五兵衛覚書】「この方(島津義弘)の陣の前は、備前中納言殿(宇喜多秀家)、東は石田殿が請取の陣場、この方は二番備」 ただし、例えば島原の乱では一揆軍37000名が殺害され、幕府軍も3000程度の戦死者がいますので、島原の乱の方が死者数は多かった可能性があります。, 関ヶ原の戦いは、徳川家康が天下を取る為に非常に重要なポイントとなった大きな合戦です。

(【当代記】では19日草津到着、20日大津到着) ③小早川秀秋隊は、上記魚鱗陣に対して包囲する形で攻撃を仕掛けるであろう黒田、細川、井伊、福島隊に対して、側面攻撃を行わせるべく、伝令を遣わす。 9月21日、家康が大津城へ入る。【慶長年中卜斎記】

⑧安国寺恵瓊隊を福島、井伊隊の背後を突く形で行進させる。 まず、役場近くにある「関ケ原町歴史民俗資料館」で地図を入手し、展示物を見て、戦の様子を学んでから古戦場を巡るのがオススメです。 「なぜ、こうなった?!」という石田三成の嘆きが聞こえてきそうな、なんとも理不尽な格好になりました。 南西の松尾山にいた小早川秀秋ほか、複数の軍勢が東軍に寝返って、西軍の側面を突いたのです。通説では正午といわれていますが、一次史料などによれば寝返りは開戦と同時、あるいは西軍の拠点だった松尾山を陣取った時点で、東軍への参加を表明していたともいわれています。 さらに、東の南宮山にいた吉川広家 … 西軍の総大将は一応、毛利輝元ということになっていますが、実質的に軍を率いていたのは石田三成。

すると宇喜多が対福島のために展開させていた部隊を他に回すことができ、 1611(慶長16)年6月4日、九度山で昌幸が死去(65歳)。, 1614(慶長19)年10月初旬、豊臣秀頼の使者が密かに九度山へ訪れ、支度金として黄金200枚、銀30貫目を届ける。 と切り捨て 昌幸は家臣16名、信繁は正室 竹林院や親族とともに高野山へ入る。その後場所を九度山へ変える。, ------------------------------------------- そして同日昼過ぎ、勝敗を分ける決定的な出来事が。 なお、この時点での東軍の戦略目標は三成の居城佐和山城であった[83]。, 7月27日、榊原康政は秋田実季に、三成と吉継が「別心」したので、家康に対して淀君・豊臣三奉行・前田利長らより上洛の要請があることと、会津方面における指揮権が家康から秀忠に移されたことを伝える書状を出している[84]。ところが7月29日になると一転して三奉行が「別心」した事を伝える家康の書状が黒田長政・田中吉政・最上義光に出されている[85]。この時点で黒田・田中の両勢はすでに西へ向かっており、7月30日には藤堂高虎に対しても西進の命令が出されている[86]。, なお7月25日に下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したいわゆる「小山評定」が行われたとされる。しかし「小山評定」についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義を巡っては様々な説が出されている。, 7月26日付の書状で豊臣三奉行は中川秀成に輝元勢2万は瀬田と守山の間で陣取り、東軍の西進があれば迎撃する予定であること、また秀家と秀秋の両勢が醍醐・山科・大津に展開していることを伝える[87]。7月29日に三成が伏見に到着[88]。, 8月1日、伏見城が落城[89]。同日輝元・秀家と豊臣三奉行に三成を加えた四奉行は、木下利房に木下勝俊と共に、加賀国小松に進出した前田利長に備える為北ノ庄へ向かうように指示を出すが[90]、8月3日に西軍側山口宗永の籠もる加賀大聖寺城は前田利長によって攻め落とされ、宗永は自害[91]。, 8月4日、家康は西進する福島正則・池田輝政ら諸大名に対して井伊直政を派遣したので、その指示に従うようにとの書状を出す[92]。8月5日に家康は小山から江戸に戻り[93]、同日三成も佐和山に戻る[94]。この頃西軍は尾張清洲城に入った福島正則を説得中であり、これが成功すれば西軍は三河侵攻、失敗すれば清州を攻撃する予定であった[95]。8月8日には吉川広家と安国寺恵瓊が指揮を執る約1万の軍勢が長束正家勢とともに伊勢へ出陣。また、三成も岐阜城主織田秀信と相談のうえ尾張方面に出陣。この時点では輝元が3万の兵力をもって、浜松で家康を迎撃する予定であった[96]。8月17日に島津義弘が美濃垂井に着陣し[97]、20日には本国薩摩に向け増援の要請を出している[98]。, 8月19日、黒田長政らは井伊直政・本多忠勝に対して家康の出馬を待たずに、木曽川を越えて犬山城方面に進出することを報告[99]。, 8月22日、東軍諸大名は清須周辺に集結し、同日木曽川を渡った池田照政麾下の部隊が秀信勢と戦いこれを破る[100]。翌23日には福島正則以下各隊が秀信の居城岐阜城を攻め秀信を降服させ[101]、救援に駆け付けた三成・島津勢も撃退[102]。, 8月24日、徳川秀忠は信州上田攻略のため宇都宮を立つ[103]。岐阜城と同じ西軍側の犬山城に対して、井伊直政が同日付の書状で、城主石川貞清とともに籠城している竹中重門らに城の明け渡しを勧告[104]。, 8月26日より秀家・行長・三成・義弘・秀頼の馬廻衆ら2万人が守る大垣城に対して、東軍8万人による包囲が開始され、城方は毛利勢に救援を要請する[105]。, 8月27日、岐阜落城の知らせを受けた家康は岐阜攻めに参加した諸大名に戦功を賞する書状を出し、福島正則には自分と秀忠勢が到着するまで軍事行動を控えるよう指示する[106]。, 9月1日、家康が江戸を出立。同日付書状で、この頃垂井に集結していた福島・池田らの東軍主力諸将に、自分の到着まで自制するよう再度指示を出し[108]、堀直寄には大垣城を水攻めで落とすつもりであることを伝えている[109]。, 9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が北国口を抑える為に関ヶ原南西の山中村に布陣。, 9月3日、犬山城が開城[110]。同日細川幽斎が籠城する丹後田辺城に向け、和平の使者として日野輝資・中院通勝・富小路秀直が出立[111]。この頃より城主京極高次の寝返りにより東軍の城となった大津城に対する西軍の攻囲が始まる[112]。ただし、京極高次の動向については彼の影響下にあった弟の高知が東軍として行動していることや7月時点で東軍諸将の間でも既に高次は東軍の一員として認識されていることから「最初から東軍方であった」と見るべきで、西軍諸将が高次が淀殿の義弟であることや一時的に西軍に靡く素振りを示したことで西軍につくと思い込んでいたために、あたかも高次が寝返ったかのように認識されたとする見解もある[113]。, 9月5日一度は徳川秀忠に降伏を申し出た真田昌幸が一転して抗戦を表明。砥石城を放棄して上田城に撤退[114]。, 9月14日、小早川秀秋が関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城。続いて9月14日夜に大谷義継が関ヶ原に着陣する[116]。, 一方、家康は9月9日に岡崎[117]、10日に熱田[118]、13日に岐阜と軍勢を進め[119]、14日には赤坂に着陣。享保12年(1727年)成立の『落穂集』には島津義弘が、赤坂の家康本陣への夜襲を提案するも、島左近が反対し、三成がそれに従った結果作戦が採用されなかったとする逸話が載せられている。ただし、この夜襲策について記された一次史料は確認されない。, 9月12日、田辺城に籠城していた細川幽斎が勅命を受け入れて退城[120]。

毛利輝元が奉行らと共謀して各大名へ回状を送ったことが判明し、輝元の署名もあり、処置について対応できないことを伝える。吉川広家は忠節されているので毛利領の一、二国が与えられると伝える。【吉川家譜】, 10月3日、吉川広家が黒田長政・福島正則へ返事を送る。 南宮山の毛利軍は東軍の軍勢に阻まれ動くことができず、他の軍もうまく立ち回れず孤立しがちだったようです。 東軍も所詮は寄り合い所帯の混成軍。 (理由1小早川が左翼を担っているため、裏切られたら西軍が袋の鼠。) 敗戦後、吉川広家は福原広俊とともに黒田長政・福島正則の指示で9月16日に南宮山から近江へ退却。道案内を堀尾忠氏が行い、17日佐和山へ着く。【9月17日 吉川広家自筆書状案】 西軍「118,000人」、東軍「75,000人」

白峰旬は[165][166][167][168][169][170]7月25日より前の7月19日の時点ですでに福島正則に上洛命令が出されていること、また家康が諸大名に小山召集を命じた書状や、家康や諸大名が作成した書状の中に小山での評定に言及したものが無い点などから、評定そのものがフィクションであるとする。そして8月12日付伊達政宗宛家康書状に福島正則・田中吉政・池田輝政・細川忠興から再三「上方仕置」を優先するよう要請があったため家康は江戸に帰陣したと記されている点から、会津征伐中断と上洛はそれらの進言を考慮したうえで家康が決定したものであり、一度の評定によって決定したものでは無いとする。 10月10日、論功行賞により毛利家は周防・長門(29万8千石 )へ減封処分となる。, 毛利輝元は出家して宗瑞と名乗り、家督を嫡男 秀就(5歳)へ譲る。(幼少のため実権は輝元が握る), ------------------------------------------- Copyright ©   株式会社TOLEDO All rights reserved.

片倉喜多(かたくら-きた)は、1538年に伊達家臣・鬼庭良直の娘(長女)として生まれた。 敗戦後、大坂城の増田長盛は大津へ向かう。これにより家康は一命を助けて改易処分とし、増田長盛は出家して高野山へ送られる。その後岩槻城に預けられる。【戸田左門覚書】, <前田玄以> ただ、山頂に目立つ建物が建っているわけではありませんので、地図などで場所を確認しながら登頂なさってください。, 笹尾山に比べると山頂までの道のりはやや険しく、登り口もわかりにくいのが松尾山。 別名”胴塚”と呼ばれることもあります。 まわりをぐるりと山に囲まれている低地で、素人目に見てもかなり無防備ではなかったかと思われるような場所。 豊臣方の内情を誰よりも知る三成なら、西軍の負けを予見していたとしても不思議ではありません。, 現在の笹尾山は遊歩道が整備されていて麓に駐車場もあるため、比較的簡単に登ることができます。 その後大坂へ入り、堺近郊の石津浦で長宗我部軍の船200隻が東軍の小出秀家と交戦する。【寛永諸家系図伝】 他史料による関ヶ原の戦い兵数 【8月21日付福島正則覚書 岡文書】による東軍兵数(岐阜城攻撃前) 福島正則6,500、細川忠興2,000、加藤嘉明1,600、黒田長政1,300、筒井定次1,000、田中吉政4,000、藤堂高虎1,500、山内一豊2,600、京極高知1,500、松下重綱1,000、池田輝政6,500、浅野幸長5,000、堀尾忠 … 堀尾忠氏 勢いに乗る東軍はそのまま進軍。

【黒木左兵衛平山九郎左衛門覚書】「夜明け前に関ヶ原へ着陣された。陣場を見たところ、石田殿の備えがあり、それより右の方へ一丁半程(約164m)間があって、この方の軍衆(豊久)は夜明けに備えられた。先備であった。」 家康の性格から、東軍の3割(家康本隊中心)程度は江戸付近に残留させる可能性が高いし、進軍速度にも影響するはず。 1614年の大坂の冬の陣では20万対10万です。, 戦死した人数において、関ヶ原では両軍合わせて8000とも、30000とも言われ諸説ありよくわかっていません。 「この度の関ヶ原においての御忠節、誠に悦ばしいことです。以前からの道理が変わらないこと、特に喜んでいます。今後は秀忠と同様に思い、ぞんざいに扱うことはありません。」, 【9月28日付 伊達政宗宛 結城秀康書状】(結城秀康は宇都宮に在陣) 南宮山から離脱後、近江の居城 水口岡山城へ向かうが、東軍の追撃を受け自害。(水口岡山城に逃げ込んだ後、亀井茲矩らに安堵を約束され開城したが捕らえられて処刑されたとの説もあり), <長宗我部盛親> 20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。

大谷吉治(吉勝)…2,500 笠谷和比古は7月25日の時点では「内府ちがひの条々」は家康や東軍諸大名の許には届いておらず、未だ三成と吉継の謀反という現状認識しかない諸大名が家康に従うのは当然であったとし、むしろ一豊による居城明け渡しの献策が三奉行加担判明後の東軍分裂を防いだと評価する[173]。また東海道の諸大名の居城明け渡しと徳川譜代武将の入城という大規模な行動を評議なく行うことは不可能とする[174]。水野伍貴は、上方からの情報によって、家康は7月23日頃に毛利輝元の西軍関与を確信しており、その事態に対処するため東軍諸大名と合議する必要があったとする。そして宮部長煕が寛永10年(1633年)に記した身上書にある、小山評定に関する記述などを根拠に虚構説を否定している(一方、水野は白峰説について、定着には至っていないものの、歴史的事実とされてきた小山評定に、検証が加えられる転機になったとも評している)[175]。ただしこれら評定肯定説は主に当時の政治的状況や経緯から、実施の妥当性を主張するものであって「小山評定」を一次史料によって直接立証したものではなく、また二次史料に記された「小山評定」の内容を無条件に肯定するものでもない。, 島津義弘の夜襲策の逸話については徳川家康の年代記として享保12年(1727年)に成立した『落穂集』に載せられたものが詳しい。それによると本戦前日の9月14日の夜、島津豊久は島津義弘の発案した家康本陣への夜襲作戦を三成に提案。三成がこれに困惑していると、島左近が古来より夜襲で少勢が大軍に仕掛けて勝利した例が無い。明日の一戦での勝利は疑い無く、久しぶりに家康が敗走する姿が見られるであろうと反対し、三成もそれに従った。豊久は左近の口出しに不快を覚えつつも、左近が家康の敗走を見たのはいつのことかと尋ねると、左近は武田家臣山県昌景の配下として出陣した時に掛川城の近くで敗走する家康を追いかけたことがあると答えた。豊久はそれは下劣なたとえで杓子定規な物言いである。その頃の家康と今の家康を同じ人物と考えるのは間違いであろうと言い、苦笑いをして三成の陣を去ったという。『落穂集』の作者である大道寺友山は島津帯刀に会った際、この件について訪ねたところ、詳しい事はわからないが伝え聞くところでは義弘と豊久が夜討ちをかけるつもりであった、という返答を書き記している。, 桐野作人はこの逸話について、数万の家康本陣への夜襲という非現実な作戦を義弘が発案したとは考えがたく、また左近が山県昌景の家臣であったとする経歴も不審であり、さらに島津家側の史料に夜襲に関するものがほとんどない点から史実では無いとする。そして本戦当日、島津勢が傍観を決め込んだ理由が、作戦を却下されたことに恥辱を感じた義弘・豊久の三成への悪感情にあったとする説を否定している[176]。, なお元禄元年(1688年)に貝原益軒が著した『黒田家譜』では、豊久と左近は登場せず義弘の提案を三成が却下している。, 吉川広家は、西軍に属しながら家康に通じ、関ヶ原本戦で東軍との戦闘を回避した事が評価され、戦後に中国地方において1カ国もしくは2カ国を与えられることとなったが、それを辞退するかわりに本家毛利家の存続を願い出たため、毛利家は取り潰しを免れたとされる。しかし、この説の根拠となる書状群[177]は原本が存在せず、またそれらを掲載する岩国藩(藩祖が広家)編纂の「吉川家譜」はその典拠を明らかにしていない[178]。, 江戸時代、岩国藩は吉川家の家格を上昇させるため様々な宣伝活動を行ったが、その一環として藩外で作成された軍記物に対する、記事の内容改変や吉川家関連書状の掲載を推し進める工作を行っている[179]。宮川忍斎著の「関ヶ原軍記大成」には関ヶ原の戦いにおける広家の行動を正当化する記事とともに「吉川家譜」掲載の書状群が収められているが、これは水面下での岩国藩による働きかけの結果であり、著者や周辺関係者には報酬として金銭が提供・用意されている[180]。また、香川宣阿著の「陰徳太平記」は岩国藩による極秘の資金提供と指示のもと編纂されたものであるが、これにも広家を正当化する記事・書状が載せられている。「陰徳太平記」の編纂過程において岩国藩は偽文書の作成を容認しており[181]、「吉川家譜」掲載の書状群についても偽文書の可能性が指摘されている[139]。, 合戦前に陣列を整えていた福島正則隊の陣中を、中軍[182]の先手の井伊直政隊が松平忠吉隊を引き連れて押し通ろうとした。これを福島隊の先手を務めていた可児才蔵が、この方面の先陣(「当手の御先手」)は福島隊であると指示されており通すわけにはいかない、と押し留める。直政は家康から物見(偵察)の命令を受けているとして通行の許可を求めると、才蔵は物見ならば部隊の主力は置いて行くようにと答えたため、直政は約300名の手勢で先へ進み、忠吉は功名を挙げた、という内容である。, 一方『関ヶ原軍記大成』では福島隊の陣中ではなく、陣の前を約300名の忠吉・直政隊が通ろうとしたと記しており、先に進んだ時の兵数も約40騎ないし50騎と、話の細部が異なっている。, 笠谷和比古は、戦闘の前に定められた軍法で抜け駆けは厳禁されており、また戦闘後に正則が抗議を行った記録も無いことから、実際の直政の行動は正則に配慮して抑制されたものであったとする。また物見のため戦闘当日に発生した霧に紛れて前進したところ、たまたま敵に遭遇したというかたちを作ることで、徳川武将に一番槍の実績を残そうとしたと推測する[183]。 三女 辰姫は高台院の保護下に入る。1610年頃、津軽信枚のもとへ嫁ぐ。, <小西行長> 木村由信, 徳川家康…32,730 そこに入り込んだのが、静かに天下取りを狙う徳川家康でした。, 家康は豊臣内部の不協和音を巧みに利用して豊臣の家臣たちを取り込み、力をつけていきます。 福島正則6,500、細川忠興2,000、加藤嘉明1,600、黒田長政1,300、筒井定次1,000、田中吉政4,000、藤堂高虎1,500、山内一豊2,600、京極高知1,500、松下重綱1,000、池田輝政6,500、浅野幸長5,000、堀尾忠氏4,000、有馬豊氏2,200、西尾光教400 ※生駒一正ら一部記載なし